22年前の引越し

22年前の今日、9月1日の東京は秋晴れの月曜日でした。


10時に着くという引越しトラックを待つために9時半に神田司町まで。東京での仕事場として借りることになっていた部屋は木造2階建ての2階。1階は大家さんの自宅兼タバコ屋の店舗。2階は2部屋で、お隣のS化成さんは9時くらいには出勤していて、共同炊事場では麦茶を沸かす薬缶がガスコンロの上でシュンシュンと音を立てていました。
引越しの挨拶などをすませていると、トラックが到着。引越し屋のおにいさんたちが手際よく荷物を運び上げて、お昼前には作業完了。その後、ひとりで梱包を解いて、本を本棚に。
 といっても、今のようにマンガで溢れているわけではなく、ほとんどは大阪関係の本。大阪での仕事は、タウン誌や地元企業のPR誌、社史、学校案内だったので、それに使ったものです。引越しの時にずいぶん処分しておいたので、収納に苦労することもなく、16時過ぎにはすべて完了。こうして、東京事務所がスタートしたわけです。

大阪では、「ぴあMOOK」の編集を2冊やったばかりで、広報関係の仕事のギャラもあわせると、年末くらいまでは遊べるはずでした。こちらも、そのつもりだったのですが、翌週には立風書房のIさんが「はやい、やすい、うまい企画を考えて」と言ってこられたり、まもなく、世界文化社のKさんとMさんが「パズルのMOOKを手伝って」と言ってこられたりで、落ち着くまもなくバタバタ走り回ることに。大阪の仕事も、『産経新聞』夕刊の「関西フォークの20年」や『森下仁丹100年誌』、某大学の入学案内の取材などが残っていて、2週に1回程度は日帰り出張という状態が半年位続いて、いまなら無理かもしれないような忙しさでした。

Iさんには大変お世話になり、寄席に連れて行ってもらったり、加太こうじさんを囲む会にお誘いいただいたり……。「浅草に行くときは田原町で降りるのが通」と教えてくれたのもIさんです。
最初の仕事『未発掘の玉手箱 手塚治虫』は、Iさんが親会社の学研に転籍になったために、後輩のTさんが窓口になって完成しました。その後この本を紹介してもらうために編集部に行ったのがきっかけで『ダ・ヴィンチ』の仕事をするようになったわけで、Iさんとの接点になった芦辺拓先生にも感謝です。

もちろん、手塚プロさんはじめ多くのところのお世話になりました。

東京では、マンガ関係の研究者の方、ライターさん、フリーの編集者の方にもたくさんお会いしました。大阪ではそういう接点がほとんどなかったので、付き合い方に慣れていないことで、ずいぶん失礼なことをしてしまったようです。反省してますが、未だに同じような粗相をします。困ったものです。

でまあ、22年です。生まれた赤ん坊が社会人になる……長い年月ですね。「なにか残せたか?」と聞かれたら、「お恥ずかしながらなんにも」と答えるしかないです。

 

この神田の仕事場も2年前の3月末で閉めてしまいました。

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仕事場あった野々村商店