グロリア・スーパー6
近所の図書館に出かけたら駐車場にプリンス・グロリア・スーパー6が止まってました。
1963年に発売された二代目グロリアのハイエンドモデルで、6は国産初のSOHC直列6気筒エンジン搭載を意味してます。当時はトヨタも日産もまだ直列4気筒だったのです。プリンスの技術の高さがわかりますね。
塗装もメッキパーツもピカピカ。独特のデザインのフェンダーミラーもまっさら。車内のピラーには切子の花瓶もあって、ここまで原型をとどめているのは素晴らしいと言うしかないです。
ナンバーは「品5」つまり57年間ワンオーナーってことですよね。東京在住の人がわざわざ田舎の図書館に来たとも考えにくいので、お話を聞きたくて、オーナーさんに声を掛けようとしばらく待っていましたが、ゆっくり本でも読んでいるのか、出てきません。
15分くらい待っていたら、一緒に行った人型猫さんが「寒いだにゃん」というので諦めました。
それにしても田舎は旧車率が高いですねえ。
会社を辞めて35年
今日で会社を辞めてから35年になりました。
35年前の10月1日は朝から引越しでした。
当時は福岡の借り上げ社宅(赤坂パインマンション)に住んでいたのです。
国体通りに面して、バス停の赤坂三丁目は目の前
地下鉄の赤坂までは歩いて3分くらいの場所でした。
引越しを急いだのは退社したら社宅は即退去という決まりがあったからです。
失敗したな、と今にして思うのは、有給を使わなかったこと。
10月末退社にして、9月末からは有給を利用して休めば
もうちょっとゆっくり引っ越せたのです。
有給は入社7年で一度も使っていませんから
1ヶ月くらいなら休めたはずなんです。
ただ、あの頃のサラリーマンは有給を使わないのが常識でしたから・・・。
午後3時くらいにヤマト運輸のトラックを見送って
そのまま近所をぶらぶら。
福岡城の近所ですから、美術館とか、行く場所はいっぱいあったのです。
夕方の5時には、なじみの屋台「うまかっちゃん」で送別会。
もちろん会社関係者はひとりもおらず、みんな飲み友達。
9時にマスターが店を片付けるのをみんなで手伝って
天神のバスセンターまで見送ってくれました。
「阪神さんがんばれ!」という横断幕は恥ずかしかったなぁ。
あ、屋台では「阪神ファンの阪神さん」で通っていたのです。
スタートしたばかりの高速バスで一路大阪。
不安はありましたけど
なんとかなるだろうと、気楽に考えていました。
それが甘い考えだったことがわかるのは
もうちょっと先です。
実は大阪に到着したあとも大変だったのです。それまで3LDKのマンション住まいだったものが6畳と4畳半と3畳ほどの台所という2DKのアパート(一応、マンション秋津という名前でした)に引っ越したので荷物が入りきらず押し込むのに一苦労したわけです。
本もレコードも今に比べればずっとすくないのですが、いかんせん狭すぎました。1階の小さな庭付きの部屋だったので、その晩は一部の荷物を庭に積んだままに。雨が降らなかったので救われました。「みのり伝説」の引越しは雨の中でしたねぇ。
なんとか押し込んだものの1階の6畳は本とレコードのダンボール箱で足の踏み場もなく、台所が狭いので4畳半の部屋に置いたこたつで食事をとっていました。寝るときはこたつをどけて布団を敷くのですよ。まるで昭和30年代ですね。
1ヶ月後に心斎橋に借りたオンボロ事務所に本の大半を移して、なんとか6畳も使えるようになりましたが、こたつで食事はそのまま3年近く続くのでありました。マンション秋津は鉄筋コンクリート三階建てでしたが、壁が薄いのか、二階の夫婦喧嘩の音やねずみが走り回る音、南海高野線の電車の音がよく聞こえました。もう残っていないでしょうね。
サラリーマンの定期的な収入を失ったので、お金の面でも大変でした。事務所を開いてすぐに仕事が来るはずもなく、住民税が払えなくて督促状が届いたり・・・。サラリーマン時代に入っていたJCBカードが失効になったこともありましたね。
たくさんの人たちの応援でなんとか生き延びたという感じです。感謝。
暇なんで食事を自分でつくるようになりました。いちいち食材を買うと高くつくので、ペリカセブンという食材の宅配を頼んで、夕食分の材料で3食作るということをやってました。お昼は夕食のおかずの残りを加工した手作りのお弁当です。残らないときは、千日前で安いうどんとお稲荷さん。
いまも貧乏暮らしにはかわりないのですけど、あまり苦にならないのは、あのときに比べたら、と考えることが出来るからなんでしょう。
22年前の引越し
22年前の今日、9月1日の東京は秋晴れの月曜日でした。
10時に着くという引越しトラックを待つために9時半に神田司町まで。東京での仕事場として借りることになっていた部屋は木造2階建ての2階。1階は大家さんの自宅兼タバコ屋の店舗。2階は2部屋で、お隣のS化成さんは9時くらいには出勤していて、共同炊事場では麦茶を沸かす薬缶がガスコンロの上でシュンシュンと音を立てていました。
引越しの挨拶などをすませていると、トラックが到着。引越し屋のおにいさんたちが手際よく荷物を運び上げて、お昼前には作業完了。その後、ひとりで梱包を解いて、本を本棚に。
といっても、今のようにマンガで溢れているわけではなく、ほとんどは大阪関係の本。大阪での仕事は、タウン誌や地元企業のPR誌、社史、学校案内だったので、それに使ったものです。引越しの時にずいぶん処分しておいたので、収納に苦労することもなく、16時過ぎにはすべて完了。こうして、東京事務所がスタートしたわけです。
大阪では、「ぴあMOOK」の編集を2冊やったばかりで、広報関係の仕事のギャラもあわせると、年末くらいまでは遊べるはずでした。こちらも、そのつもりだったのですが、翌週には立風書房のIさんが「はやい、やすい、うまい企画を考えて」と言ってこられたり、まもなく、世界文化社のKさんとMさんが「パズルのMOOKを手伝って」と言ってこられたりで、落ち着くまもなくバタバタ走り回ることに。大阪の仕事も、『産経新聞』夕刊の「関西フォークの20年」や『森下仁丹100年誌』、某大学の入学案内の取材などが残っていて、2週に1回程度は日帰り出張という状態が半年位続いて、いまなら無理かもしれないような忙しさでした。
Iさんには大変お世話になり、寄席に連れて行ってもらったり、加太こうじさんを囲む会にお誘いいただいたり……。「浅草に行くときは田原町で降りるのが通」と教えてくれたのもIさんです。
最初の仕事『未発掘の玉手箱 手塚治虫』は、Iさんが親会社の学研に転籍になったために、後輩のTさんが窓口になって完成しました。その後この本を紹介してもらうために編集部に行ったのがきっかけで『ダ・ヴィンチ』の仕事をするようになったわけで、Iさんとの接点になった芦辺拓先生にも感謝です。
もちろん、手塚プロさんはじめ多くのところのお世話になりました。
東京では、マンガ関係の研究者の方、ライターさん、フリーの編集者の方にもたくさんお会いしました。大阪ではそういう接点がほとんどなかったので、付き合い方に慣れていないことで、ずいぶん失礼なことをしてしまったようです。反省してますが、未だに同じような粗相をします。困ったものです。
でまあ、22年です。生まれた赤ん坊が社会人になる……長い年月ですね。「なにか残せたか?」と聞かれたら、「お恥ずかしながらなんにも」と答えるしかないです。
この神田の仕事場も2年前の3月末で閉めてしまいました。