会社を辞めて35年

今日で会社を辞めてから35年になりました。

35年前の10月1日は朝から引越しでした。
当時は福岡の借り上げ社宅(赤坂パインマンション)に住んでいたのです。
国体通りに面して、バス停の赤坂三丁目は目の前
地下鉄の赤坂までは歩いて3分くらいの場所でした。
引越しを急いだのは退社したら社宅は即退去という決まりがあったからです。
失敗したな、と今にして思うのは、有給を使わなかったこと。
10月末退社にして、9月末からは有給を利用して休めば
もうちょっとゆっくり引っ越せたのです。
有給は入社7年で一度も使っていませんから
1ヶ月くらいなら休めたはずなんです。
ただ、あの頃のサラリーマンは有給を使わないのが常識でしたから・・・。
午後3時くらいにヤマト運輸のトラックを見送って
そのまま近所をぶらぶら。
福岡城の近所ですから、美術館とか、行く場所はいっぱいあったのです。
夕方の5時には、なじみの屋台「うまかっちゃん」で送別会。
もちろん会社関係者はひとりもおらず、みんな飲み友達。
9時にマスターが店を片付けるのをみんなで手伝って
天神のバスセンターまで見送ってくれました。
阪神さんがんばれ!」という横断幕は恥ずかしかったなぁ。
あ、屋台では「阪神ファン阪神さん」で通っていたのです。
スタートしたばかりの高速バスで一路大阪。
不安はありましたけど
なんとかなるだろうと、気楽に考えていました。
それが甘い考えだったことがわかるのは
もうちょっと先です。


実は大阪に到着したあとも大変だったのです。それまで3LDKのマンション住まいだったものが6畳と4畳半と3畳ほどの台所という2DKのアパート(一応、マンション秋津という名前でした)に引っ越したので荷物が入りきらず押し込むのに一苦労したわけです。
本もレコードも今に比べればずっとすくないのですが、いかんせん狭すぎました。1階の小さな庭付きの部屋だったので、その晩は一部の荷物を庭に積んだままに。雨が降らなかったので救われました。「みのり伝説」の引越しは雨の中でしたねぇ。
なんとか押し込んだものの1階の6畳は本とレコードのダンボール箱で足の踏み場もなく、台所が狭いので4畳半の部屋に置いたこたつで食事をとっていました。寝るときはこたつをどけて布団を敷くのですよ。まるで昭和30年代ですね。
1ヶ月後に心斎橋に借りたオンボロ事務所に本の大半を移して、なんとか6畳も使えるようになりましたが、こたつで食事はそのまま3年近く続くのでありました。マンション秋津は鉄筋コンクリート三階建てでしたが、壁が薄いのか、二階の夫婦喧嘩の音やねずみが走り回る音、南海高野線の電車の音がよく聞こえました。もう残っていないでしょうね。
サラリーマンの定期的な収入を失ったので、お金の面でも大変でした。事務所を開いてすぐに仕事が来るはずもなく、住民税が払えなくて督促状が届いたり・・・。サラリーマン時代に入っていたJCBカードが失効になったこともありましたね。
たくさんの人たちの応援でなんとか生き延びたという感じです。感謝。
暇なんで食事を自分でつくるようになりました。いちいち食材を買うと高くつくので、ペリカセブンという食材の宅配を頼んで、夕食分の材料で3食作るということをやってました。お昼は夕食のおかずの残りを加工した手作りのお弁当です。残らないときは、千日前で安いうどんとお稲荷さん。
いまも貧乏暮らしにはかわりないのですけど、あまり苦にならないのは、あのときに比べたら、と考えることが出来るからなんでしょう。

 

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現在の間取り。真ん中の部屋が洋間になって、トイレも洋式になってますが概ねこのとおりです